Gallery 陶迷庵  Gallery 陶迷庵 − 私のお気に入り * Page 17

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A Minton Trio and a Slop Bowl From kazu様 01/11/23

   

 カップ高さ:5cm、ソーサー直径:13.7cm、ケーキプレート直径:17.4cm
  窯印:Impressed 'MINTONS’ and a year cypher for 1879, Pattern number G2771 (1877-1878)
 スロップボウル直径:15.24cm
  窯印:Pattern number G2771 (1877-1878)

パリフルートのトリオとスロップボウル。シンプルな金彩に、蝶が描かれている。花散らし紋ならぬ、蝶散らし紋とでも言いましょうか。
残念ながらイギリスのディーラーから購入したスロップボウルはクラックがあります。一方日本のディーラーから購入したトリオは完品でした。
どちらも同じ時期に市場に現れましたから、おそらく同じ出所ではないかと考えています。
MINTONの刻印は1860年から1873年まで使用され、1873年以降MINTONSになります。
イアーマークは1879年ですが、型番はG2771で、1877年から1878年の間に出来た型で、このトリオ自体は1879年製になります。
Gで始まる型番は上手のモノで、スロップボウルのマークは型番と意味不明の四つの点のみです。


A Minton Plate From kazu様 12/25/22

     

   

A creamer (possibly Minton)
  直径:24.5cm
  窯印:Retailer mark: Pellatt & Wood (Baker Street, London)
     Year mark for 1872(imprint) behind the retailer mark G1285 S (1873-1875)

ブルーのグラウンドカラー、周辺には高品質の金彩に飾られた三つの花絵のカルトゥーシュ。中央には2人の天使が薔薇で飾られた二つのモノグラムを掲げ、その上には馬のエンブレムが描かれている。
フレンチシェイプに高品質の金彩、セーヴル窯のブリュ・セレストの様な地色、1874年、ヴィクトリア女王の次男のエジンバラ公・王子アルフレッドと、ロシア・アレキサンダー2世の娘の結婚を記念して制作されたデザートプレートを彷彿とさせるこの作品は、恐らくミントン窯が制作し、ロンドン・ベイカーストリートの販売店、ペラット・アンド・ウッド(Pellatt &Wood)社が販売したモノと考えられる。
恐らく何れかのセレブリティーの結婚を記念して制作されたモノではないだろうか。

Gで始まるパターンナンバーは、豪華な金彩や、上手の絵付けの作品に付けられる。
プレート裏の中央には、販売店のスタンプが押されているが、ミントン社のイアー・マークは、そのスタンプに隠されている。ここでも、磁器メーカーに対して販売店が強い力を持っている事が分かる。
この作品の絵付師としては、普仏戦争でセーヴル窯から1872年にミントン窯へ移籍した、Antonin Boullemier(Active1872-1900)が有力な候補に挙げられる。


A Creamer From kazu様 12/10/22

     

 

A creamer (possibly Minton)
  高さ:7cm
  窯印:なし A sticker of Thomas Goode Co. inside.(international exhibition 1871)

右側面には気品の漂う女性の肖像画。ビジューの騙し絵のボーダー装飾。
左側面には、花綱で飾られた王冠にアルファベットのA。
更にシェイプは典型的なロココ・ダブルスクロールハンドルに、膨よかなボディーを支える三つの足と、まるで18世紀のロココセーヴル磁器の様なクリーマーだが、窯印などは一切ない。
内側にステッカーが一枚、International Exhibition of 1871, T. Goode Co. 7 とある。

実はこのクリーマーは、ヴィクトリア女王の4女で、芸術の才能に恵まれたルイーズ(Louise)王女の結婚を記念して制作されたティーセットの一部である。
このクリーマーの他にティーポット、シュガー、ティーカップが別々に売られていた。
ティーポットには花嫁のルイーズ王女が、結婚相手の花婿である後のスコットランド第9代アーガイル公・ジョン キャンベル(John Campbell, 9th Duke of Argyll)、当時のローン侯爵ジョン(John,Marquess of Lorne)と共に描かれている。二人は1871年にウィンザー城で挙式した。更にシュガーには長女のヴィクトリア王女、ティーカップには3女のヘレナ王女が描かれていた。

ステッカーのトーマス・グッドは、1827年創業の販売店で、1863年からRoyal warrant(王室御用達)を獲得しており、主にガラス・磁器製品を王室に納めていた。
また国際展示会は、1851年、1862年とロンドン万博、更にもう少し小規模の国際展示会がロンドンで1871年から1874年まで毎年開催されていた。
このクリーマーの女性は、次女のアリス(Alice)王女で、この時既に後のドイツ・ヘッセン大公ルイ(Louis IV, Grand Duke of Hesse)と1862年に結婚していた。
アリスの結婚は、1861年に父のアルバート公が亡くなった翌年で、結婚式もひっそりと執り行われた。その後の彼女の生活も過酷で、貧困や家庭内の確執に苦しみ、1866年に始まる普墺戦争では、プロイセンに嫁いだ長女ヴィクトリア(Victoria)と敵どうしと成り、関係が悪化、更に負傷者の溢れ返る首都ダルムシュタットで、ナイチンゲールを友人に持つ彼女は、彼女を通じてイギリスからの寄付を集めたり、彼女の助言を受けながら野戦病院を整備し、献身的に働いた。
その後1877年に夫が即位すると、1878年にはヘッセン宮殿内でジフテリアが流行し、次々と子供達が発病し、家族の看護に奔走した末に自分自身も感染して35歳で亡くなった。
このクリーマーの肖像画は、彼女の強い意志と優しさが、その表情から感じられる。

結局このティーセットは、ロンドンの国際展示会に出品されたものではないかと考えられるが、では制作したメーカーは何処か?
19世紀に入ってセーヴル窯の芸術部門の総監督になったアレキサンドル・ブロンニャール(Alexandre Brongniart)は、マイセン窯やヴィーン窯とも交流しており、セーヴルの18世紀のプラスター型(Plaster cast)をミントン窯に大量に譲渡している。
またトーマス・グッド社は、数多くのミントン磁器を扱い、ミントンの窯印にはグッド社と連名のモノもあり、1845年にロンドンのメイフェア、サウス・オウドリー・ストリートに開いたグッド社の販売店は Mintons’ London showroom とまで言われていた。
ミントンのRoyal familyへの影響力にも、この会社が深く関わっていた。
19世紀前半では、磁器メーカーに対してロンドンの販売店は圧倒的に力が強く、ロンドンに販売店を持たないミントンもそうであった。販売店は、消費者が販売店を介さずにメーカーから購入する事を嫌って、メーカー名の窯印は中々入れる事を許さなかった。
1830年代から40年代のミントン磁器の数%にしかメーカー名が見られないとGodden 氏が著書の中で言われている。


Tea set - A creamer, a teapot, and a lid of sugar From kazu様 11/17/22

       

       

Tea set
  Royal Worcester. 1876. (A creamer and a lid of sugar ). Unknown maker ( A teapot )

  Painter: B C Harbutt ( Later decoration outside of the factory)
  Monogram: SAB
  Mark: a cross and v
  `H 757‘
  A letter: Reply to the dealer by Henry Sandon.
  A teapot H.9.5cm, A creamer H.8cm, A lid of sugar D.7cm

草花の上を天使が飛び回り蝶を追っている。3点とも同じモチーフで描かれており、同じ絵付師の作品と思われる。
クリーマーとシュガーポットの蓋には、1876年製のウースターの窯印が入っている。ティーポットは白磁の素地が異なっており、ウースターのマークもなく、ウースター以外のメーカーのモノと考えられる。
従ってこれらは、白磁を購入した後、外部で装飾された作品と考えられる。
実は19世紀に、この様な事業を広げていたのは、Howell & James Co.である。元々ロンドンのリージェントストリートにお店を構える宝石商であり、銀細工工房でもあり、1819年より1911年まで操業していた。
1876年からはプロのアート・ポタリーや、陶磁器にアマチュアの絵付師が装飾した作品を集めて展示するギャラリーを併設したが、これが大きな反響を呼ぶ事となり、間もなくロンドンの主要会場で展示会が開催される様になった。主にNational art training school(通称サウス・ケンジントンスクール)のデザイナーや学生の作品が販売された。
ヘンリー・サンドン氏の著書のRoyal Worster Porcelain(P4)でも、この会社について触れられており、公式にウースター社などから白磁が提供され、そこに装飾を施して販売した 。リージェントストリートの店舗の上には、一時期には、140人もの女子学生が暮らしていた。

今回のTea setは、ウースターの1876年製のモノが使われており、これらの白磁は、この時期にこう言った事業の為にウースター社が製作した物と考えられる。
絵付師のサインはHarbuttとあるが、この時代で検索すると、William Harbuttと言う名前が挙がって来る。
彼は1844年生まれで、1869年から1874年までロンドンのサウスケンジントンにある、National art training school(現Royal college of art)で、建築物の製図などを学んで指導資格を取得した。1874年からThe school of art in Bathの校長を務めたが、何らかの争議の為に1877年に退職した。
妻のElizabeth はミニチュア・ペインターで、3人の娘の内、二人目の娘の名前がBeryl Cambridge Harbuttで、この作品のサインと符合する。
モノグラムのSAB は、The school of art in Bathに符合する。
一家はバースに居住しており、この作品は、彼女がThe school of art in Bathに所属し、H & J社に作品を提供したもので、H757は、同社の識別番号とも考えられる。
但し、Berylは1881年生まれで、白磁の製作年よりも若い。1901年でやっと二十歳に成る。この場合、白磁のかなり後で絵付けがされたことになる。
この時代では、まだ女性芸術家の評価は低かったが、ロンドンでは1843年にThe female school of designが設立され、それは1859年にサウスケンジントンにNational art training schoolに併設する形で移転した。
H & J社は、主に女性絵付師の作品をフィーチャーし、展示会を開催したものと考えられるが、当時としては、非常に斬新な企画であったと考えられる。
この作品では、全体の構図のぎこちなさや、焼成時のPepperingなどが見られるものの、天使の絵付けのレベルはハイレベルである。
ヘンリー・サンドン氏もこの絵付けの良さをお手紙の中で称賛している。


Two KPM Figurines From kazu様 01/02/22

     

KPM Berlin窯 フィギュア:子羊と少女(春のアレゴリー〜季節のアレゴリーを表す4人の子供より)
 年代:1763年
 原型師:フリートリッヒ・エリアス・マイアー(Friedrich Elias Meyer) ゴツコフスキー時代のモデル
 高さ:11cm
 窯印:窯印:青の釉下彩で王笏 刻印で15とV

子供が子羊を抱えているが、横から見ると、髪の毛を束ねていることより少女だと分かる。
三角形の台座は、ベルリン窯に多く、この特徴は、カスパー・ヴェゲリー(Casper Wegery)の時代には見られず、Gotzkowskyの時代から見られる。
恐らく7年戦争で、フリートリッヒ大王(Friedrich II)がマイセン窯から連れて来た、フリートリッヒ・エリアス・マイアー(Friedrich Elias Meyer)の影響が考えられる。彼のロココ美術に対する感性は、くねらせた身体の曲線の表現や、このロココ風の台座などに反映されている。
このフィギュアは、1761年から1763年の間に、彼によって制作された型から造られているが、大王が買い取った後のKPM ベルリン窯の染付の王笏の窯印が入っている。
また15とVの刻印が入れられているが、KPM ベルリン窯のモデルブック(Das modellbuch)によると、ゴツコフスキー時代のモウルド(Modelle der Gotzkowsky-Zeit)の所に、△15 Ein Figurchen, Ein Madchen mit einem Lammchen と書かれている。
△は台座の形で、15はこのフィギュアの型番であると分かる。1763年から数年間は、ゴツコフスキーの型が流用され、彼は引き続き原型師主任に就いて、制作を継続した。後半部分は、「子羊と少女」という意味である。
またこの作品は、四季のアレゴリーの中での一つで、春のアレゴリーにあたる。
ドイツでは未だにケルト文化の影響が残る。ケルトの季節の祭りで、冬至と春分の中間の日である、2月1日に行われるインボルク(Imbolg)というお祭りがある。日本の立春のように、春の訪れを祝うお祭りである。
インボルクとは、「羊の乳」を意味するケルト系の言葉で、この時期に子羊が生まれ、人々は祝宴を開く。この春のアレゴリーは、欧州に多く残るケルト文化を表している。

     

KPM Berlin窯 フィギュア:ユピター
 年代:1769年-1770年
 原型師:ヴィルヘルム・クリスティアン・マイアー(Wilhelm Christian Meyer)
 高さ:11.5cm
 窯印:青の釉下彩で王笏、刻印で407とA

ロココ風に身体をくねらせ、左手には雷束を持ち、足下には鷲を従えている。
この作品は、KPM ベルリン窯の神々(Gotter)のシリーズの一つで、最高神ユピター(Jupiter)を表している。ややひょうきんさが有る。
王笏の染付の窯印とともに、407とAの刻印が入れられている。
KPM ベルリン窯のモデルブック(Das Modellbuch)には、Vercleidete Cupidos als:△ Gotter 407 Jupiter と書かれている。前半部分は「天使の変装」で、△は台座の形で、407は型番である。「ユピター」はその神の名である。
この作品の原型師は、ヴィルヘルム・クリスティアン・マイアー(Wilhelm ChristianMeyer)で、マイセン窯から連れて来られた、フリートリッヒ・エリアス・マイアー(Friedrich Elias Meyer)の弟である。
彼もまた、1761年にボンからベルリンへやってきて、1766年よりこの窯で原型師として働いていた。


2 Okura Demitass C/Ss From risuko様 09/12/21

   

*大倉陶園 デミタスカップ&ソーサー 2客
 年代:不明
 2客とも カップ直径4.7cm 高さ4.6cm ソーサー直径10.2cm 高さ2cm

皿の裏側に金線が入っており、黒のデミタスは特注品ではないかと思われます。
ソーサーの文字から、この作品はロートレックの「エグランティーヌ嬢一座」をモティーフにしているものと思われます。ソーサー中央の風車はパリの有名キャバレー「ムーラン・ルージュ」のシンボルです。
黄色のデミタスは図録にありました。(2019年「華めく洋食器 大倉陶園100年の歴史と文化」展図録)


A Worcester Plate & A Chantilly Cream Cup From ふじわらゆう様 07/21/20

   

*ウースター ブラインドアール 小皿
 年代:1760年頃
 直径:14.5cm 枝を含む直径:15.7cm
 窯印:なし

狩りの事故で盲目になった伯爵の為に作られたという逸話を持つ、ウースターのブラインドアールの小皿です。
バラの蕾や持ち手の枝、描かれている葉などが浮き彫りになっており、視力を失った方にも、手で触って判別できるようになっています。
しかし、購入したお店で頂いた資料にも記載されていましたが、その伯爵が事故に遭う前に既にこのパターンがあったというのも有名なところです。同資料では、それ以前に、チェルシーなどに原型があると記載されています。
いずれにせよ、浮き彫りのデザインは大胆で美しく、持ち手の枝にも節がついていたりして面白く、少々地味ですが、とても美しくてお気に入りの品です。

         

*シャンティーイ 葡萄栗鼠文 クリームカップ
 年代:1750年頃
 直径:6.0cm 全体高さ:9.0cm カップ高さ:5.9cm 蓋内径:5.3cm 外径:6.3cm 高さ:3.5cm
 窯印:なし

シャンティーイの蓋付きクリームカップです。年代は、記憶が定かではなく、確かこの年代です。
シャンティーイの柿右衛門手の特徴である、錫釉の温かいクリーム色の地が優しく、気に入っています。
葡萄栗鼠文については、少し描き方が甘いかもしれません。また、栗鼠文の写真がどうしても上手く撮れず、すこしぼけています。済みません。
このお品の最大の特徴は、蓋つきのクリームカップである点だと思います。ご覧の通り、持ち手はどんぐりで、大変可愛いです。購入したお店のお話では、このお品の仕入れ時、別の、クリームカップを集めているお客さんに、「シャンティーイのクリームカップは持っていないので、是非譲ってほしい」と頼まれたが、珍しいお品だったので断った、とのことでした。
蓋には、花や昆虫(甲虫かコオロギ、或いはタガメ?)があり、ハンドルにも、赤の唐草(というか、植物(草))文が施されており、細部まで装飾が行き届いています。


A Vincennes C/S & A Vauxhall Milk Jug From kazu様 05/31/20

   

   

*ヴァンセンヌ窯 (1738-1756) ブルー・セレストのカップと受け皿
 年代:1754-1755年 素地: 軟質磁器
 カップ直径:9.5cm、カップ高さ:6.5cm、 ソーサー直径:13.5cm
 イヤーマーク:B / 1754?1755
 カップの絵付け師のマーク : T の上に点ドット / フランソワ・ビネ(Francois Binet (1750-1775))
 受け皿の絵付け師のマーク: L / ドゥニ・ルヴィ(Denis Leve (1754-1793))
 刻印 : 四角形 (1749-1750)、2本の平行線(1748-1749)

この典型的なロココ様式の洋梨型のカップは、1752年の10月にヴァンセンヌ窯から始まり、セーヴル窯の初期でも制作された、エベール(Hebert)型と呼ばれるカップである。
カップの胴部のふくよかな曲線は、洋梨を連想させ、典型的なクロスするスクロールハンドルは、木の幹の様な装飾が金彩で施され、まさにロココ様式の優美さを表現している。
グラウンドカラーは、ブリュ・セレスト(blue celeste)、空の色であり、科学者ジャン・エロー(Jean Hellor)が1753年に開発したモノで、ルイ15世のディナーサーヴィスに使用され、ブリュ・ド・ロア(Blue du Roi)「王の青」とも呼ばれているものである。またこのブリュ・セレストは、1755年に改良され、より鮮やかでムラの無いモノになっている。
カップの絵付け師はフランソワ・ビネ(Francois Binet (1750-1775))、受け皿の絵付け師はドゥニ・ルヴィ(Denis Leve (1754-1793))。いずれもフラワーペインターである。
また素地自体にも職人のマークが入れられる。これは型師(Moulder)らが自分の仕事である印に刻むモノで、あくまでも管理者の品質管理の為に入れる事が義務付けられている。
この作品では、正方形(1749-1750) 、平行線 (1748-1749)が刻まれており、それぞれ制作年が分かっている。この様なカップと受け皿の場合、受け皿側に入らない事もある。

   

   

*ヴォウクソール窯 (1751-1764) 花絵のミルクジャグ
 年代:1756-1758年
 高さ:9cm
 窯印:なし シール : ECC Exhibition 2007

ヴォウクソール窯(1751−1764年)
テムズ川の南岸・サウスバンクは、多くの材木置き場とともに、石鹸工場や、砂糖工場や醸造所が設立され、18世紀には、イギリスの陶器生産の中心地となっていた。
ウェストミンスター橋の南にかかるランベス橋を渡るとランベス(Lambeth)村、更に南のヴォウクソール橋を渡るとヴォウクソール(Vauxhall)村に当たり、いずれも多くの陶器工場が17世紀後半から設立され、品質はともかく、庶民が使用する多種多様な日常品を大量に生産し、経営的にも大きな成功を納めていた。
これらの陶器メーカーで育った職人が、後にブリストル(Bristol)や、プリマス(Plymouth)、更に植民地時代のアメリカにまでその技術を広め、19世紀後半のランベスのドルトン(Doulton)窯の成功にまで、それは引き継がれている。
1751年6月、このヴォウクソール村に短命ではあったが、独創的な製品を生産する磁器工場が設立された。
地元で鉛釉陶器工場を経営していたジョン・サンダース(John Sanders)と、ロンドンのセント・ポール大聖堂で宝石商を営んでいたニコラス・クリスプ(Nicholas Crisp)によって設立された磁器工場で、ソウプストーン(Soapstone)を原料とするステアタイト磁器(軟質磁器)工場を、ヴォウクソール村のグラスハウス・ストリート(Glasshouse Street)に建設した。

ツバメの嘴の様な注ぎ口と、ウースターやリヴァプール窯でよく見られる耳型のハンドル。上縁には金彩が施され、しっかりとしたタッチで花絵が描かれている。
素地は軟質で釉薬が緑色がかっており、ウースター窯のようなステアタイト磁器の特徴が見られるが、やはりウースター窯やカフレー窯とは風合いが違う。
1750年代の磁器の装飾は、セント・ジェイムズ社(St. James)にしろダービー窯(Derby)にしろ、中国磁器にしろ、同じ様な花の、しかもヨーロッパスタイルの絵付け装飾が見られ、それらはロンドン絵付け工房によるものと考えられる。
ヴォウクソール窯でも、染付けや東洋風のモチーフ、または銅版画からの転写に後で色を置く様な装飾は自社装飾で行われたが、多くの花絵の多色装飾がロンドンの外部絵付け工房で行われている。
したがってこの作品の様な多色の花絵で、輪郭線も見当たらないモノは、ロンドンの絵付け工房によるモノと思われる。また上縁の金彩もロンドン装飾の特徴である。
この作品の高台内には、ECC(English Ceramic Circle)のシールが貼られているが、2007年のECCの展覧会「Ceramics of Vauxhall 18th century pottery and Porcelain」で出品されたモノである。この展覧会のカタログでは、この作品が有名なロンドンのジャイルズ工房(James Giles Atelier)の装飾の可能性があるとは、記載されていない。
しかしステフェン・ハンスコウム(Stephan Hanscombe)が『The Early James Giles and his Contemporary London decorators 』で指摘している、ジャイルズ工房絵付けのTypeB の花絵に似ているところもある。


伊万里 柿右衛門 色絵蝶牡丹文輪花皿、色絵竹梅岩文小皿 From kazu様 05/08/20

   

 

*色絵蝶牡丹文輪花皿
 年代:1680-1700年/天和ー元禄年間
 直径:18.2cm
 窯印:銘:N=27 ロ(Japanese Palace inventory number)

五葉の輪花に濁し手に、蝶と牡丹を対照的に配した絵付けは上品である。裏も文様はシンプルな唐草文に一つおきに鳥が止まっている。
銘はないが目跡が4箇所ある。ただ表の青は上絵であるが、裏の青は染付けで、厳密には濁し手ではないかもしれない。更に『N-27ロ』の刻印が刻まれている。ヨハネウムマーク(Johanneum mark)と呼ばれ、この刻印はザクセン選帝侯アウグスト強王のコレクションに入れられたマークである。収蔵品を分類整理し、目録を制作する為に刻まれたモノである。 ガラスカッターで釉薬の上から刻み、黒色で塗られた。第1回目の目録制作は1721年に行われ、5巻で構成されていた。
収蔵品は1733年にアウグスト強王自身が亡くなると、未完成だった日本宮殿に収められた。その後コレクションが追加され、1770年から1779年の間に第2回目の目録制作が行われた。この作品は製作年代からも第1回に記録されたモノと思われる。
ヨハネウムとは、ドレスデンの建物の名称で、1875年から1876年にかけて日本宮殿からコレクションがこの建物に移された。この作品はアーンホルト(Arnhold)コレクションのオークションに出品されたモノである。

*色絵竹梅岩文小皿
 年代:1670-1690年/寛文ー元禄年間
 直径:14.4cm 高さ:4.5cm
 窯印:N=120 ロ(Japanese Palace inventory number)

染付け色絵併用の八角小皿。周囲を縁銹(ふちさび)と力強い唐草文で装飾し、見込みに芭蕉岩と竹梅を描く。
裏文様には、如意頭文(4個)と、高台内には『宣嘉年製』の銘が染付けで入る。この銘自体は、1670年から1690年の作品に使われている。
更に『N-120 ロ』の刻印が刻まれている。ヨハネウムマーク(Johanneum mark)と呼ばれ、この刻印はザクセン選帝侯アウグスト強王のコレクションに入れられたマークである。収蔵品を分類整理し、目録を制作する為に刻まれたモノである。 ガラスカッターで釉薬の上から刻み、黒色で塗られた。第1回目の目録制作は1721年に行われ、5巻で構成されていた。
収蔵品は1733年にアウグスト強王自身が亡くなると、未完成だった日本宮殿に収められた。その後コレクションが追加され、1770年から1779年の間に第2回目の目録制作が行われた。この作品は製作年代からも第1回に記録されたモノと思われる。
ヨハネウムとは、ドレスデンの建物の名称で、1875年から1876年にかけて日本宮殿からコレクションがこの建物に移された。この作品はアーンホルト(Arnhold)コレクションのオークションに出品されたモノである。


A Napoli Giustiniani C/S & Milk Jag From kazu様 05/08/20

       

*ナポリ ジウスティニアーニ窯
 年代:どちらも1835頃
 カップ直径:10cm 高さ:6.5cm ソーサー直径:13.3cm 高さ:2.8cm
 ミルクジャグ直径:10cm 高さ:13.0cm  窯印:どちらも刻印 G

豪華な金の蛇を模したダブルハンドルにギリシアの黒絵式陶器のようなシルエットの装飾。素地は厚く重い。高台内に筆記体のGが刻印され、ナポリのジウスティニアーニ(Giustiniani)窯の作品だと分かる。
クリスティーズにこれに似た作品が出品されて話題になったが、エジプシャン・リヴァイヴァルとされていた。
ナポレオンのエジプト遠征のあと、フランスのシャンポリオンが1824年にエジプトの象形文字を解読するが、彼は古いコプト語に精通し、一度もエジプトに行く事無く解読に成功した。その後世界はエジプト熱(Egyptian Fever)に湧き立った。
この作品は1835年頃に制作されたと考えられるが、受け皿の人物像の下に、象形文字とも判別出来無い文字も描かれている。しかしよく見ると、同じ様な黒絵式の様な装飾でも、クリスティーズの作品とは、モチーフが少し異なっている。
この作品が、イタリアのナポリで制作された事より、新古典主義の中心地で、ポンペ遺跡の遺物からの影響も考えられるが、むしろイタリア半島のローマ人の先住民、エトルリア人の遺物を思い起こさせる。
この人物像はやはりギリシア人だと思われるが、黒絵式の陶器は、実は紀元前7世紀にコリントスで発明された。赤土をベースに黒でモチーフを描くモノである。逆に地を黒で塗りつぶして、赤土部分を浮き立たせる「白抜き」ならぬ、「赤土抜き」は、赤絵式と呼ばれ、紀元前6世紀にアテネで発明された。
イタリア半島は、ラテン民族に席巻される以前は、エトルリア人の半島であり、彼らは盛んにコリントス等のギリシア諸都市から多くの黒絵式、赤絵式の陶器を輸入していた。
そしてそれらを模倣し、多くの黒絵式の陶器壷を自ら制作した。但し素地の地の色は赤ではなく、イタリア半島の肌色の土で制作されており、一見してギリシア陶器と区別出来る。 ナポリのあるカンパーニャ州は、ウンブリア州にも隣接しており、あちらこちらにエトルリア人の遺跡が散在している。
この作品は白地に黒でギリシア戦士をモチーフに描かれており、ギリシアよりもむしろ地元のエトルリア人の陶器に影響されたモノではないかと思われる。


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