Gallery 陶迷庵  Gallery 陶迷庵 − 私のお気に入り * Page 16

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A Belgian Etterbeek C/S From kazu様 05/04/20

     

*ベルギー ブリュッセル エッテルベーク窯 トランプ柄のカップ・ソーサー
 年代:不明
 カップ直径:6.4cm 高さ:6.4cm ソーサー直径:13cm 高さ:2.9cm
 窯印:赤でE B (monogramme)(Etterbeek)

(この窯について)
1787年、ブリュッセーレ(Bruxelles)の南東、エッテルベーク(Etterbeek)に、ザクセンからやって来たドイツ人、クレチアン・クーヌ(Chretien Kuhne)(独Christian Kuhnクリスティアン・クーン)によって硬質磁器工場が設立された。
この窯は設立時はオーストリア領であったが、1789年のフランス革命以後、フランスの影響下に置かれている。もっとも文化的にはベルギー南部のこの窯は、トゥルネイ(蘭ドォールニック)窯と共に、以前よりフランス語圏である(アントワーペンなど北部はオランダ語圏)。
従ってこの窯では、フランスのパリ窯の様な華やかな、花絵や鳥の絵をモチーフとするテーブルウェアや、ビスキュイや釉薬を掛けた白磁のフィギュアが制作された。詳細については不明だが、おそらく1803年頃に操業を停止したと考えられている。

(この作品について)
いわゆるCoffee Can(Straight-sided cup)に、Loop Handleのシンプルなシェイプ。
トランプ(jours aux cartes / playing cards)の起源は諸説有るが、東洋のタロットや、エジプト起源説があり、西洋のトランプは、他の文化と同じ様にアラブ世界から派生したものと考えられる。
その後中世末期の14世紀後半、ヨーロッパでペストが猛威を振るっている時代にトランプ遊びは流行し、15世紀後半になってフランスで現在の様なスート(マーク)、スペイド、ハート、クラブ、ダイヤのスートが発明された。
キングやクラブには、絵のモデルの名前が書かれているが、マケドニアのアレクサンダー大王等、これらは歴史上、伝説上の人物で、フランスで確立されたものである。
その後バロック時代では絵画にも登場し、カラヴァッジョや、ラ・トゥールの『いかさま師』などが挙げられる。
18世紀終わり頃には、現在の様な上下に人物像を描かれるようになった。貴族社会で晩餐会の後、トランプで夜通し遊んだり、ヴェルサイユ宮殿のポンパドォール侯爵夫人もサロンでトランプに興じた。
磁器への装飾では、ウィーン窯の作品が最もよく知られているが、ゾルゲンタール期(1784年ー1805年)や、ビーダーマイアー期(1805年ー1864年)に制作され、オーストリア応用美術博物館(MAK)や、リヒテンシュタイン美術館(在ヴィーン)のリヒテンシュタイン公爵家のコレクションにも収蔵されている。
この作品は、地色が異なっているが、リヒテンシュタイン公爵家のコレクションにある、1819年制作のヴィーン窯製の黒地の作品に非常に良く似ている。
ソーサーの装飾の精緻さにはヴィーン窯には劣るものの、小さい窯ながら良品を制作していたと考えられる。


A Kouyousha Vase (向陽舎) From kazu様 01/02/20

       

     

*Kouyousha 向陽舎 「お正月遊戯」(仮題)
 年代:明治12年?
 直径:20cm 高さ:36cm
 銘:大日本東京向陽舎製造

二輪の花屋台を引く子供達や、凧に羽子板、太鼓を叩く子供達。
子供達がお正月遊戯に興じる様子が描かれたこの花瓶は、明治時代の向陽舎で制作されたものである。金彩の仕方等は九谷系の作品と思われる。アメリカからの里帰りの作品である。
絵付けの中に「明治什二年・・・正月・・」とあり、明治12年製と考えられる。

東京向陽舎については詳細は不明であるが、濤川惣助との共作があり、「上絵金彩風系図皿」(明治前期)という作品が残っている。
濤川惣助は、当初は陶磁器の貿易商で、絵付けもしていたのだが、明治10年の第1回内国勧業博覧会で七宝の魅力に取り憑かれて、七宝に転向しており、明治12年のこの作品の絵付けを行ったかどうかは疑わしい。
ただ牡丹の描き方が似ており、瀬戸の加藤五助との共作で、同じ様なお正月の羽子板に興じる女の子を描いた花瓶が残されている。

明治12年は、第1次教育令が公布され、自由民権運動の影響も有り、アメリカをモデルに、地方の事情に配慮し、地方に最大限の教育の権限を認めるものであったが、おそらく水準に格差が出た為か、翌年の明治13年に改正された第2次教育令では、国が教育統制するモノに変更された。


2 Meissen C/S and A Sevres C/S From kazu様 12/11/19

       

*マイセン窯  ウェッジウッド風のビスク磁器のカップ.ソーサー
 年代:1790年頃
 カップ直径:8.0cm 高さ:4.5cm ソーサー直径:13.4cm 高さ:3cm
 マーク:刻印で星とトライアングルの中に双剣

豪華で繊細な金彩で造り込まれたアンピール様式(帝政様式)のハンドル、外側には18世紀末に、新素材の陶器、ジャスパーウェアでヨーロッパを席巻していたイギリスのウェッジウッド窯を彷彿とさせる浅浮き彫りの装飾(bas relief)が施されている。
マルコリーニ期に入り、経営が増々悪化する中で、ロココから新古典主義へ大きく踏み出した作品である。装飾のレベルは第一級品である。窯印は三角形の中に双剣、そして上に星の刻印。
これらの刻印は、フィギュアなどビスクイット磁器に入れられる事になっていた。従ってテーブルウェアでこの窯印は珍しいものである。同じ形状のカップで、ジャスパーウェアの様にライラックで外側を塗られているものが下記参考文献に掲載されている。
Reference: Porzellan von Meisen bis zur Gegenwart by Renate Moller p55  Plate:47

 

   

*セーヴル窯 プラチナと金で装飾されたカップとソーサー 素地 硬質磁器
 年代:1815-1824年
 カップ直径:6.7cm 高さ:6cm ソーサー直径:13.3cm
 マーク:Lettre date : 7 mai 14 (7th May 1814) 14 june 16 (14th June 1816) 刻印: en creux :凹

藍地に金彩、プラチナ彩の装飾を施したカップとお皿。窯印からルイ18世(Louis XVV)の治世、王政復古時代の作品だと分かる。
天然のプラチナについて、実は1750年よりも前には、何も知られていませんでした。各地での科学アカデミーでこのプラチナの加工技術が研究され、王水(Aqua Regina)で溶解出来る事が分かり、その加工技術が研究されると、真っ先に応用されたのは、18世紀の最先端技術が注がれていた「磁器の装飾」で、世界で初めて磁器の装飾にプラチナを用いたのは、プロイセンのベルリンKPM窯でした。
王立プロシア・アカデミー(Royal Prussian Academy)で、アンドレアス・ジークフリート・マークグラフ(Andreas Siegfried Marggraf)らが中心に研究を進め、1782年にマークグラフが亡くなると、その後継者のフランツ・カール・アクハールト(Franz Karl Achard)が研究を引き継ぎ、彼はヒ素を添加する事によって、より低温でプラチナが溶解出来る事を突き止めました。
そして最終的には、1780年にマークグラフの裕福な姪と結婚し、資金的に援助を受けていた、マルティン・ハインリッヒ・クラップロート(Martin Heinrich Klaproth)(1743?1817)が、1788年に磁器へのプラチナ彩の技術を開発しました。
この技術は彼によってこの年にベルリン科学アカデミーで発表されますが、その技術が広まるには更に少し時間を要します。
クラップロートのペーパーは、1802年になってライプツィヒの the Allgemeine Journal der Chemieで、アレクサンダー・ニコラス・シェーラー(Alexander Nicholas Scherer)が再版することで世界各地に広まりました。
イギリスで最初にこの技術を導入したのは、当時スポード窯でデコレイターをしていた、ジョン・ハンコック(John Hancock)と、ヘンリー・ダニエル(Henry Daniel)で、1805年に制作し、’Silver Lustre’と呼んでいました。
オーストリアのヴィーン窯では、洗練された新古典主義様式の作品が制作され、科学者ヨーゼフ・ライトナー(Joseph Leithner)はより純白の素地や、新しい上絵装飾(ウランから製造した黒)や、更に1803年から1805年の間に、プラチナ彩の技術を開発した。
フランスのパリでは、王室の金細工師、マル・セティエンヌ・ジャヌティ(Marc Etienne Janety)が、クラップロートに少し遅れて、宝飾品へのプラチナ装飾に成功し、更にコレージュ・ド・フランス(College de France)の化学教授で、セーヴル窯の技術ディレクターを務めていた、ジャン・ダクレ(Jean D’Acret)が1791年に、この磁器へのプラチナ装飾技術を実現しました。

さてこの作品では、金彩、プラチナ彩で、当時導入した印刷技術によって装飾されています。この時代、王は多くの功労者に、磁器の作品を下賜する必要があり、この印刷技術によって、大量にしかも安価に、御下賜品の制作が行われたそうです。

 

       

*マイセン窯 プラチナ彩と金彩 蛇のハンドルと獅子の足(マルコリーニ期)
 年代:1806-1814年
 カップ直径:7cm 高さ:6cm ソーサー直径:17.2cm 高さ:2.7cm
 マーク: 釉下に青で描かれた双剣と星 釉上に黒で『97』

蛇を象ったハンドルにライオンの足で支えられたコーヒーカン。美しいアップルグリーンのグランドカラーに、金彩とプラチナ彩の装飾が加えられたこのカップ・ソーサーは、アンピール様式の勇ましい装飾や、ナポレオンの好んだシェーレ・グリーン(Scheele's Grun)を彷彿とさせるグランドカラーといい、恐らく神聖ローマ帝国が崩壊し、1806年にザクセン王国となった時代のものと考えられます。
ナポレオンが失脚した後、ヴィーン会議の1815年までの間、フリードリッヒ・アウグストはザクセン王国アウグストT世となり、ワルシャワ王国の国王を兼任することとなり、この時期のマイセン窯は、アウグストのお気に入りであった、カミーヨ・マルコリーニ伯(Graf Camillo Marcolini)が1774年より総監督になっていましたが、負債が肥大化し、その後ナポレオン戦争で更に状況は悪化していきました。
経営の改善を模索し、白磁のまま売られた磁器が多く、その為この時期の作品は、後にマイセン窯外で装飾されたものが多く、収集家がオリジナルの作品に出会う事は少ないと言われています。
この時期、セーヴル窯では、アレキサンドル・ブロンニャール(Alexandre Brongniart)が所長に就任し、当時は帝立、現在の国立セーヴル陶器博物館を設立します。彼は各地の磁器製作所と作品を交換したり、直接訪問したりしながら、新しい技術の情報を収集し、技術革新を進めて行きましたが、1804年にまず第一に交流したのがヴィーン窯で、マイセン窯もその後訪問しています。
当時の所長マルコリーニは、普通なら部外者の立ち入りを禁止する、窯や、作業所へ、ブロンニャールのみ招待しており、この関係は次ぎのマイセン窯の総監督、ハインリッヒ・ゴットリープ・クューン(Hainrich Gottlieb Kuhn)との間でも維持されました。
この時期にマイセン窯にプラチナ彩が導入される様になったかどうかは不明であり、やはり後世の装飾の可能性も残りますが、ヴィーン窯、セーヴル窯に出遅れず、マイセン窯でもこの新しい技術が導入された可能性も充分あると考えられます。
マイセン窯はこの次の時代でクューンが就任すると、古い設備を一掃し、青以外での初めての釉下彩、クロム・グリーンの葡萄の葉の装飾(ヴァイン・リーヴス)に成功します。


伊万里牡丹唐草大鉢, A Den Haag Plate, A Liverpool Cup, A James Giles Cup From kazu様 09/05/19

   

*Arita 有田(1610年頃ー現在)牡丹唐草大鉢
 年代:18世紀中葉/宝暦ー 直径:30.5cm 高さ:14cm 銘:変形した福窯印

大きな牡丹の染付けに唐草文、内側周囲には四つ割り花菱文、見込みには山水文が描かれ、高台周囲には幾何学文、高台内には変形した福の銘が入れられています。
この大鉢は直径30cmを超える。大鉢自体、初期の古伊万里には少なく、銘の字からも、18世紀中葉頃の作品と考えられる。
これだけの大振りの作品が無傷で残っているのは珍しく、貴重な作品です。

 

     

*Den Haag(1776-1790)(decorater) デザートボード 軟質磁器(トゥルネ窯)
 年代:1777年頃 直径:23cm 窯印:釉上に、鰻を喰わえるコウノトリ

バスケットウィーヴの透かしの中央に、鳥の装飾。その回りの窓絵にブーケが描かれています。
このお皿は、1777年頃にデン・ハーハで装飾されたものです。素地自体は軟質磁器であり、ベルギーのトゥルネ窯で焼かれたもので、白磁のままハーハの工房に持ち込まれて装飾されたものと考えられます。ノーマークで持ち込まれ、最後に窯印の鰻を食わえたコウノトリの絵が釉薬上に入れられています。
ハーハは、市に対して磁器焼成する事で操業許可が得られており、公には磁器焼成を行っていることになっていた。したがってハーハの重要な素地供給元であるドイツのアンスバッハ窯などは、ハーハ窯へ輸出する白磁にアンスバッハ窯の窯印のAを入れなかったり、予めハーハ窯の窯印を釉下彩で入れて置く事も有った。アンスバッハ窯のハーハへの経営依存度は、トゥルネ窯よりも高く、その為にそのような処置が行われていた。
長い間ハーハは自社で磁器製造を行っていたと考えられていたが、後世の工場の調査で、絵付け用のマッフル窯しか発見されず、この窯が窯ではなく、絵付け工房であったとういう実態が明るみに出た。

 

     

*James Giles Atelier (1743-1777)( possibly) Coffee Cup of the Philip Christian Liverpool Porcelain
 年代:1771or1773-1776 窯印:なし

このカップはリヴァプールのフィリップ・クリスチャン窯で製作され、ロンドンのジャイルズ工房で絵付け、装飾されて販売されたものと考えられます。
ウースター窯やカフレイ窯と同じソープロックを原料として作られたステアタイト磁器は区別がつきにくいのですが、一般にはリヴァプール窯ではウースターよりも灰降りの黒点が多いと言われています。しかしこの作品ではそれほど多くありません。
しかし高台内側の釉薬のスペアが全く無く、楔型の高台も畳付きがウースター窯よりも若干狭くなっており、リヴァプール窯と同定されます。
花の絵付けは、典型的なジャイルズ工房の絵付けで、特に百合と、薔薇の描き方に特徴が有ります。しかしハンドルの装飾は、ジャイルズ工房特有の、徐々に小さくなる金彩装飾ですが、金の質がこの作品では異なっています。
フィリップ・クリスチャン アンド サン(Philip Christian & Son)の台帳には、1771年と、1773年、1776年にジャイルズ工房の記載が残っています。

 

       

*James Giles Atelier (1743-1777)( possibly) Coffee Cup of the Worcester Porcelain
 年代:不明 カップ直径:5.3cm 高さ:6.5cm 窯印:Square Mark (underglaze blue)

このカップは、ウースター窯の白磁にジャイルス工房が絵付けをして販売したもので、残念ながらソーサーは伝世していませんが、花の絵が美しく秀逸な作品です。特にメインフラワーである薔薇の絵は、典型的なジャイルス工房の描き方です。
ただし多くのジャイルス工房の装飾で見られるハドル部分の金彩は、この作品では無く、替わりに黒のエナメルで装飾されています。しかしこの装飾も、ウースター窯によるものとは考えにくく、ジャイルズ工房の後で装飾されたものかも知れません。
ジャイルズ工房の絵付けの特徴は、Stephan Hanscombe氏の、『James Giles China and Glass Painter』を参考にしています。


A Tournai Plate & A Berlin / Johann Ernst Gotzkowsky Manufaktur Figurine From kazu様 09/05/19

       

*Tournai(1751-1850)(Doornik) Assiette(皿)
 年代:1762-1799 直径:24cm 窯印:La tour en or 金彩で塔

トゥルネ(Tournai)窯は、 現在はベルギーの代表的な窯ですが、オランダ名ではドールニック(Doornik)窯とも呼ばれています。創業当時はフランス領に有り、そう言う意味では18世紀のフランス、しかも軟質窯の一つと考えられます。
この作品は、豪華な金彩で鳥を描き、細かいディテイルまで金彩で表現している。素地は軟質磁器で、器形はこの時代のフランス特有の形です。
背景の装飾はシャンティ―イ窯で1753年から1760年に制作された、ブルーモザイクの装飾に類似している。また金彩で描かれた鳥の装飾は、ヴァンセンヌ窯で1750年代に制作された作品に酷似している。
この窯に1753年からアルカニストとして迎え入れられた、ロベール・デュボワ(Robert Dubois)は、この二つの窯を渡り歩いています。
窓絵の金彩の縁取りは、トゥルネ窯に特有な形状で、窯印は金彩で塔が描かれており、トゥルネ窯と同定されます。

Berlin / Johann Ernst Gotzkowsky Manufaktur(1761-1763) Figur / Putto als Kavalier mit Dreispitz Aus der Puttenserie(三角帽子を持つ騎士の天使−天使のシリーズから)
 年代:1761-1763 高さ:11.0cm 窯印:無し

陶迷庵ギャラリーの12ページにあります、1751年にベルリン窯を創設したヴィルヘルム・カスパー・ヴェゲリーの工場が、1757年に廃業すると、その施設、道具、原料のすべてを買い取り、ヴェゲリーの工場の磁器の製法を引き継いでいた 原型師・エアンスト・ハインリッヒ・リヒャルト(Ernst Heinrich Richard)から、磁器の製法を買い取ったのが富裕商人のヨハン・エアンスト・ゴツコフスキー(Johann Ernst Gotzkowsky)でした。
彼は元々フリードリッヒ大王の美術品購入のお抱え商人で、ベルリンで初めて絹織物の工場も創設しました。大王から磁器の製造許可を得て、王室の管理のもとで操業を開始させましたが、結局操業は3年で終わります。1763年、債務を抱えた工場は大王自身が買い取り、王立窯、KPMベルリンが誕生します。
因みにゴツコフスキーは、ドイツ出身でロシアの女帝となったエカテリーナ2世に、1764年、 大王の為に収集していた225枚の絵画コレクションを売却しています。 七年戦争の出費で、大王がそのコレクションを購入する事を拒否した為ですが、女帝は大王にロシアの富を見せつけてあっと言わせたかったのでしょう。当時のロシアは、現実にはプロイセンの富には遠く及ばなかったのですが、このコレクションからエルミタージュの美術コレクションはスタートしているそうです。
このフィギュアは、そのゴツコフスキーのベルリン窯の作品と考えられます。
18世紀に流行した三角帽子を、左脇に抱える紳士風の天使で、このシリーズは元々マイセン窯で制作された「Putten Serie(天使シリーズ)」を模倣しています。実はヴェゲリー窯でも模倣されていますが、この作品とは全く違うものです。
残念ながら、この作品には『G』のマークが無いのですが、ステムの装飾の仕方、高台の特徴、フィギュアの釉薬の風合い、顔の描写等、ゴツコフスキー窯の作品と思われます。


二代目三浦竹泉、三代目三浦竹泉改め竹軒、並びに浅井一毫方形盃 From KEI様 01/10/19

いつの間にか方形の盃、しかも入れ子の盃が集まったのでご覧頂ければ幸いです。まずは作家の紹介を簡単にさせて頂きます。

 二代目三浦竹泉 著名な京の陶工である初代竹泉(1853-1915)の長男
         (1882-1920)だが初代逝去後二代竹泉を襲名して5年で早逝。

 三代目三浦竹泉 兄二代竹泉逝去後、まだ二代の息子が幼少だったため三代竹泉を襲名。
         1931年四代竹泉を兄の長男に家督を譲り、以後三浦竹軒として名作を作る。

 浅井一毫(1836-1916) 天保7年生まれの大聖寺藩藩士だが、九谷宮本屋窯が経営困難になった時
         大聖寺藩が藩窯として買収、京から永楽和全を招き、共に製作を行うが
         明治4年の廃藩置県により、藩窯は閉じられ明治12年九谷陶器会社の画工部長となる。

以上簡単ですが盃達の作り手紹介です。まずは三浦竹軒の5つの入れ子盃をご覧ください。
画像は蓋、蓋裏、真上から撮影したもの、横に並べ横から撮ったもの、上から撮ったもの、底を撮ったものです。
大きさは一番大きいもので縦8cm横8cm高さ5.3cm、一番小さい物で3cmx3cmx2.3cmです。

         

次に二代目竹泉の染付入れ子觴(この字で「ショウ」と読みます。「さかずき」の事です)
最後の底部分は小さい方は書き文字ですが、大きい方は押印で「竹泉」とあります。
大きさは大縦4.5cm横4.5cm高さ3cm、小3cmx3cmx2.3cmです。

     

浅井一毫の赤絵金襴雲鶴盃です。これとまったく同じ金襴雲鶴の絵付けの永楽和全の馬上杯が九谷美術館にあります。
大きさは縦5.2cm横5.2cm高さ4.3cmです。

     

最後に全員集合です。ご覧いただきありがとうございました!


A pair of tea caddy spoons, A folk, A pair of folks, A pair of saucers From kazu様 12/22/18

       

左2枚 ペアキャディスプーン:1883-1884 London John Hunt & Robert Roskell社製
中央  フォーク:1885-1886 London Francis Higgins社製
右2枚 ペアフォーク:19th century? possibly Hanau

           

Une paire de soucoupe a quatre pans ronds (ペアの四つ葉状の丸い受け皿)
素地:軟質磁器  サイズ:直径13.4cm
窯印と年代:マーク無し、Possibly Vincenne (1749-1750)

このペアーの四つ葉状のお皿は、恐らく同じ四つ葉状のカップ、若しくはティーボウルの受け皿と考えられる。
この様な形状の受け皿は、マイセン窯で1730年から1740年頃に制作されており、背面を黄色の単色にしている所も、マイセン窯の作品を模したものと考えられる。
バロック装飾の ラウプ・ウント・ベンダーヴェアク(Laub-und Banderwerk)で周囲を金彩で装飾し、金彩のカルテューシュ(窓枠)の中に風景画が描かれている。
同じ様な作品が、ベルヴェデーレ(Belvedere)コレクションにあり、'Vincenne and early Sevres porcelain' by Joanna Gwiltという本に収載されている。作品No43-45のこの一群は、ヴァンセンヌ窯の窯印が無く、前者二つはマイセン窯の様な青の双剣マークが釉上に入り、作品46はこの作品と同じノーマークである。
この様な作品群は、マイセン窯のティーセットの、所謂リプレイスメントとして制作されたと考えられている。
またこの様な作品群で特徴的であるのは、金彩の技法である。セーヴル窯の様な金彩上に装飾が入らず、金彩のラインの脇から下の赤いラインが見え隠れしている事である。この作品では一部金彩が剥がれ、下の赤のラインをハッキリと見ることができる。
これは金彩のラインの定着を良くする為とも考えられるが、金彩に赤のエナメルが一部混ざって、マイセン窯のレッドゴールドの風合いを出そうとしたのかも知れない。また、裏面の黄色の単色装飾は、塗りにムラが有り、均一に塗られた、セーヴル時代との相違がハッキリと分かる。
果たしてこの作品と全く同じ金彩装飾、形状のものが参考文献で見つかったが、それはドッチア窯、第2期のものとされている。
'Tazzine Italiane Da Collezione' by Saul Levy という本の中に収載されている。この本の Tav.LXV に、この作品と全く同じ辺縁の金彩装飾で、窓絵もパレットが、かなり酷似している。
ただこの本にはカップも載っており、カップの外側の黄色の単色装飾が見られるが、このノーマークのカップソーサーをロレンツォ・ジノリの作品とは考えにくく、私の作品の素地も、硬質磁器では全く無く、ドッチア窯とは考えられない。
結論は出ないが、先ずは金彩の特徴等から、この本に載る作品も含めて、ヴァンセンヌ窯の作品の可能性の方が高い様に思われる。


 From KEI様 09/06/18

     

売り手も中国製か日本製か判らなかった硯です。でもとりあえず一目惚れ!こんな愉快な硯は滅多にありません。
1枚目が全体。二枚目は硯部分の蓋を外したところ。
大きさは縦11cm 横7.3cm 高5cm しかありません。
立てかけた墨は一番小さな一丁型。高さ7.5cm、幅2cm、厚み1.3cm程度です。
それでこれだけ大きく見えるのですから・・・実用は難しいでしょう。(私はいつもこの三倍の大きさの三丁型の墨を使っています)

でもとにかくかわいい!マーティンブラザースと似ていると言われ否定できませんでした。 年代も作った国も判らずお嫁に来た子。大事に致します。
今回は画像撮りに失敗して実物の方がヤンチャな感じです←愛してますね。
真ん中のグレイの部分は初めからの石の色で直しではありません。
四枚目はついていた桐箱ですが、これは後から作ったものかもしれません。時代のある、しっかりした桐箱です。大事にされていたのですね。


初代真清水蔵六陶硯 二代蔵六(泥中庵)識 From KEI様 01/26/18

       

初代真清水蔵六
幕末の京の陶工、1834年(天保5年)に叔父の和気亀亭に陶法を学び、のちに京都五条坂に開窯。明治10年没。
二代真清水蔵六(泥中庵)1861〜1936年明治15年に二代真清水蔵六を継ぎ、初代を「清水の中の亀」自身を「泥の中の亀」泥中庵と名乗る。突出した名工であり、また「蔵六漫筆古陶録全(大正14年鳩居堂刊)「陶寄(大正4年芸艸堂刊)などを刊行していた陶磁器の研究者でもある。
現在は五代蔵六まで続いており、四代の弟真清水伸氏も活躍されている。

この陶硯は初代真清水蔵六の物で、二代泥中庵の物はかなり出てきますが、初代の物には なかなか出会えませんでしたが、今回茶道具商が京都五条坂の陶工の持っていたこの作品を譲って下さいました。
縦8.9cm横6.9cmの小さな可愛い硯ですが、さすがにうまいです。蓮の葉に蟹の面が裏で表は硯になっており、池もあり墨が摺られた後もあります。日本でも7世紀から11世紀頃までは陶器の硯が主流だったといいますから、昔はもっとあったのでしょうが、正直これはとても墨をする気にならず、煎茶道の方が床に飾ったものではないでしょうか?
箱も非常によくできた箱で蓋を横にスライドして開ける形式で、明治のものなのに1mmの狂いもありません。手掛かりに唐木、または黒柿を使っています。表書きは「初代蔵六作 青瓷蓮葉形硯」蓋裏に「泥中蔵六識」と書かれています。
掌に乗る硯のイメージを出したくて娘の手に乗せ撮影しましたが、どうも娘の手は大きいようです。


A Worcester Fan Pattern Tea & Dessert Service From kazu様 01/10/18

     

   

   

年代:1768-1775年
Composed with 3 tea cups & saucers,1 coffee cup & saucer, 1 demitasse cup,
1 chocolate cup & saucer,3 medium plates, 1 lozenge shaped plate,
1 kidney shaped plate,1 teapot, 1 creamer,1 slop bowl,1 punch bowl, and 1 tea canister, bowl
窯印:All pieces have a mock oriental mark in underglazed blue.

1700−1730年頃に制作された、古伊万里様式の染め錦、菊花文を模した装飾である。しかしウースター窯のこのパターンは、マイセンの古伊万里写しを模倣したものである。
この‘Fan Pattern‘は、’Old Mozaic’ Patternとともに、主にティー・チョコレート・デザートサーヴィスでのみ認められ、ディナーサーヴィスでは存在しない。
1769年12月のウースターのセールカタログでは、’Old Japan Fan Pattern’と書かれているが、確かに1760年代では、古い古伊万里のパターンを写したモノという表現は妥当である。この時代では古伊万里のオリジナルは中古でしか手に入らなかった筈である。

このパターンでは、狐の絵の入った大型のティーポット型のポットが存在するが、狩猟の際に飲み交わす、パンチ用のポットと考えられている。
また用途不明のボウルが存在するが、大型のものはパンチボウルで、小型のものはスロップボウルではないかと考えられる。

<追加:ウースター ファンパターンの鉢>
上縁の直径17.4cm  高さ9.0cm
出光美術館所蔵の鉢よりも、高さは少し低くなっていますが、中間で膨らむシェイプは共通しています。実物を眺めてみると、「砂糖入れ」の可能性が最も高いと感じました。
この鉢の見込みの「紋」は殆どこすれて消えてしまっています。また丁度見込みの底の角に、小さいキズが沢山付いています。シュガートングのようなもので付けたキズでしょうか? 日本の法人からの品物ですが、お茶道具に使った可能性はないでしょうか?


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